「惑い」
凌統。字は高績。昔餓鬼によって父親を殺された。
俺が知っているのは、餓鬼からの話しでそれだけだった。
そして、周泰殿のことも、考えてみれば名前だけであまり
餓鬼とのことを知らないようにも思えた。
呂蒙殿の名で届けられた渡された文。
凌統が帰ってから、餓鬼に見せた。
「呂蒙のおっさん、本当優しいな・・・」
その文を見ての第一声がそれだった。
「お前を心配しているんだろう」
「でも、俺だってこんなところで死にたくはねぇよ」
「ここで、生き抜いても殺されるかも知れない
のにか?」
「・・・凌統か・・・。だな、そうかもしれ
ねー
な・・・・あいつのことだから助けにきたと見せかけてさりげなーく、ばっさりといってくれるかもしれねーな・・・」
餓鬼は先ほどとは違って、いつもと同じ様に振
舞ってい
た。
「かもしれないな」
餓鬼が再びいつもと同じ様に振舞ったのはきっと何か心の
変化があったのだろうと思うことにし、こちらも普段と同じ態度を取ることにした。
その後、暫く酒を飲み交わし餓鬼は明日の用意があるから
と自分の天幕へと戻っていった。
そして、今日。
いまだ明け切らぬ空、俺は馬に跨り一足早く持ち場へと行
く事にした。
だが、ついた場所にはすでに先客が一人、自分と同様に馬
に跨り敵城を見下ろす凌統がいた。
凌統は、ただただ静に眼下の城へと視線を向けていた。
「此処からだと・・・あそこの門を突破することが一番良
いのだろうな・・・」
気配を消し、静かに横につく。
そのまま共に城を見下ろし、感想を述べた。
「あ・あんたは!」
相手の驚く声と表情が今現在、ようやく俺が此処にいるこ
とに気がついたのだと語っている。
今はいいが、戦が始ってからだと真っ先に危ないのでは、
と他国ながら少し心配に刈られた。
「ずいぶんと早いな・・・まだ、戦を開くには充分時間が
あるというのに・・・」
自分の天幕を出てきたときに比べれば幾分かは明るくは
なったが未だ茜色の空は薄暗く、日も完全に上りきっていない。
「今日も青天か・・・暑くなりそうだな・・・」
雲一つと無い空。
「あんたも、ここの配置なんですか?」
「ああ。よもや、そなたがいようとは」
軍議では話を聞かなかった。
なら、きっと餓鬼に関してのことで呂蒙殿が急遽呼んだの
であろう。
俺はそう思い、常々餓鬼が大事にされているのかを感じ
た。
「・・・・一つ・・」
まだ茜色に染まっている空を見上げて、そう凌統は聞いて
きた。
「ん?」
「一つ、聞いても・・・いいですか・・・?」
大体の予想はついていたが、一先ず相手が話しやすいよう
先を促す。
「答えられるものであればな」
相手の台詞に、思い浮ぶのは一つの質問。
「昨日、俺が届けたあの文・・・中には一体何が書いて
あったんですか?」
空を見上げたままで尋ねる相手に、俺は内心、やは
り・・・と呟いた。
「何故?」
「・・・俺の前で文を開いたあんたは、一瞬だけアイツ
に・・・・甘寧に視線を投げた・・・」
「・・・・」
「その仕草が・・・何か、気になったんです・・・」
「凌統・・・と、言ったか・・・?」
「ええ」
見上げている空は澄み切って何処までも蒼い。
「そなたの父君は餓鬼・・・いや、甘寧によって殺められ
たと・・・」
凌統が再び城へと視線を向けた。
「そうです」
「・・・・・・憎いか?」
そう聞くと、一瞬だけ息をつめる呼吸を聞いた。
だが、なんら変らぬ表情。
それ以上に、口元には笑みが浮んでいる。
「・・・・・そりゃー・・・クククッ・・・・憎いでしょ
うよ。なんせたった一人の父を殺されたんですから・・」
その答えに、静に頷き俺も再び城へと視線を向けた。
「そうか」
「でも・・・・、それだ
けのことなんですよ」
今までとは違う静かな、ただ静かな声に、再び顔を凌統へ
と向ける。
「何?」
「憎いというだけのことで・・・ただ、それだけのこと
で、それ以上でもそれ以下でもない・・・それ以上のことを探しても見つからな
い・・・・」
「そうか・・・」
その言葉に頷いて俺は手紙の内容を凌統へと聞かせた。
「・・・・・今日の戦、餓鬼の軍は途中で一旦引くそう
だ」
何も返事を返しては来ないが、相手が聞いていることは気
配でわかった。
「・・・・」
「そして、裏手に回り敵の背後から突く。それと同時に、
火矢を城に放ち敵を一網打尽にすると・・・・、そう昨日届けられた文には書いてあっ
た」
「・・・・」
俺は視線を、今日、火矢を撃たれるであろう城の中腹へと
向けた。
「そして、出来れば餓鬼を守って欲しいとも・・・・」
「守る?」
そこで今まで黙っていた凌統が反応を示した。
「ああ・・・。火矢を打つのは相手が逃げ出せないように
するため。そうすると、餓鬼も・・・きっと城から出れまい・・・。そのまま城ご
と・・・敵ごと一緒に業火に包まれるだろうと・・・仲間を向か
わせ救出は試
みるそうだが、助け出せるかどうかは五十厘にも届かぬらしい」
「じゃぁ、このままほっとけば俺は解放されるんですか
ね?」
静かな問いかけ。
俺は視線を城に向けたまま言葉を続けた。
「かもしれないな・・・呂蒙殿は、俺に餓鬼を助けてやっ
て欲しいと・・・実は秘密裏に文を託した・・・」
そう。呂蒙殿から託された手紙は実は隠密であった。
魏を頼る。俺を頼るということが――――例え、それが個
人からの頼みであろうと――――どうゆうことかをしっかりと理解しているのだろう。
「へぇ・・・、いいんですか?俺にそんな機密を漏らしち
まって?」
「凌統。お前は餓鬼が憎いと、言っていたな?それ以上で
も無く、それ以下でもなく、ただ単に憎いのだと・・・。それは、父上を殺されたから
か?」
敢えて問い掛けられた質問には答えず、聞き返した。
「・・・・なんですか、急に・・?」
相手の声色が不安と途惑い、そして苛立ちが混じった物に
変じたのを聞き逃さなかった。
「答えてくれないか?」
「・・・・そうでしょう・・・父上は、俺の絶対的存在
だった・・・それをアイツは・・・・」
静かな声。だがその声色とは裏腹に手綱を握る凌統の手に
は血が滲んでいた。
「・・・不安か?」
暫しその様子を見やって、静に問い掛ける。
「・・・っつ!!」
その一言に、凌統は俺に掴みかかり大声で叫ぶかのごとく
怒りを露にし始めた。
「・・・さっきから一体何なんだ!?話の先をはぐらかし
てばかり!!あんたは・・・あんたは俺に一体何を言わせたいッ!?」
その表情には、どこか不安にとれる様子が浮んでいること
が伺えた。
「不安か・・・・」
「だから、一体!?」
凌統が、更に食いかかろうとした矢先・・・
「何をしている!!凌統!!」
遠くから、呉国主上の声が響いた。
「・・・いえ、何も・・・」
苦渋の顔で俺から手を離し、凌統は少し馬を引いた。
「・・・申し訳ない。我が配下の者が無粋な真似を致し
た」
代わりに謝罪を述べる相手に俺は頭を下げた。
「いや、こちらこそ少々不躾なことをしてしまった。どう
かそう責めないで頂きたい」
「そう・・・申すのなら・・・。凌統」
「っは」
「今回は見逃すが、今は戦。今後同じ陣内での争いは一切
控えるように」
「・・・申し訳・・・ございませんでした」
そしてすぐさま他の武将に呼ばれ、呉國主上は其方へと
去っていった。
「・・・・」
「悪かった」
「・・・謝んないでくださいよ・・・なんて言い返せばい
いのか分からなくなる」
「そうか・・・」
そして、陣がそ
ろい、開戦の笛の音が響いたのであった。
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